いったい、なぜ負けてはいけないのだ。

Cさま

令和の初メールです。
ひきつづき、というか
ますますヨロシクね。

平成最後の1日は、
文字通り死んだように眠りこけていました。
ときどき目を覚まして、
デザインと能とブロックチェーンの本を交互に読み散らかし、
志の輔の落語とYEBBAのヴォーカルパフォーマンスに聞き耽り、
甘えん坊のサスケの容赦ない重力の下敷きになって悶絶する、、という。

それはそうと、
Cにシェアしたい一節を発見したので、
要約編集しておとどけしますね。


いつのころからか、若い日本人は「自分さがし」を重視するようになった。
四、五十代は「勝ち」を求めるようになった。
会社は「負け犬」から脱することを目指すようになった。

近代欧米社会がつくりあげた行動イデオロギーは、
一言でいえば「明日は今日よりよくなる」という進歩思想だ。
この「勝ち」を求める行動イデオロギーは個人にもおよび、
「自己実現」というたいそうアメリカンな方針をふりまいた。
そのうち
「ポジティブ・シンキング」こそあなたを救うという口調になってきた。
成長志向や上昇志向だ。

いったい、なぜ負けてはいけないのだ。

自分の力を過信して失敗してしまった者たち、
他人の恨みを買った者たち、
ついつい勇み足をした者たち、
みずから後ずさりしてしまった者たち、
自分の能力がうまく発露できなかった者たち。

能ではかれらのことを、「負けた」とは解釈しなかった。
「何かを負った」と解釈した。
そこに新たな再生がありうることを謡ったのである。

千夜千冊1176夜『異界を旅する能』より


この先はこう続きます↓


世間や社会は「負」を「罪」にしたがる。

もともと日本には「はらい」系と「こもり」系の贖罪の方法があったが、
やたらに検察や警察が罪人を拘置する、強制的な「こもり」ばかりが
支配的になっている。

今日の日本は、あらためて「はらい」の意味を考えるべきではないか。
そこには流浪の者が何かを引き受ける文化があった。

つまりさ、
「はらい」を担うことができるのは
自身の内に「負」を抱えた者こそ、だっていうワケなんだよね。

私ね、自分の人生に使命があるとしたら
この「はらい」に関わることじゃないかなぁと感じているの。

Cなら分かってもらえる気がして
つらつら書きました。

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